2006年08月16日
川俣晶の縁側無意味監獄 total 3932 count

技術に惚れ込んだ「技術の使用者」が「技術の専門家」と倒錯される問題は存在するか?

Written By: 川俣 晶連絡先

 ちょっと気になる文章を見つけたので、メモ。

 単なるメモで結論はないので、無意味監獄に書いておきます。

RFIDタグ搭載ランドセルの校門通過記録で仲良しグループを割り出すという小学校教諭の発想は普通?

 より

社会的影響や倫理的な検討をするのは、技術提供者よりも技術の使用者の役割と一般的には考えられているだろうが、技術の使用者が技術に惚れ込んでしまうような場合には、どうすればよいのだろうか。

どういうことかというと…… §

 拙著「実践Web2.0論」で書いた「1996年体制」という空虚なムーブメントを支えたのは、「技術に惚れ込んだ技術の使用者」である……という見方が可能ではないか、というアイデアです。

 このようなムーブメントを支えた人達の典型的な特徴として、基礎的な技術常識の決定的な欠落と、自分は誰よりも正しく技術を理解しているという盲目的な確信が見られる感じがあります。このような特徴は、彼らが「技術提供者」ではなく、「技術に惚れ込んだ技術の使用者」であると解釈すると、非常にすっきりと理解できるような気がしました。

 気がしただけで根拠はありませんが (汗。

もっといえば…… §

 このようなケースで、「技術に惚れ込んだ技術の使用者」は、自分自身からも周囲からも「技術提供者」と立場が混同されます。本来同じ立場ではない両者が、同じ立場であると倒錯されるのです。

 その結果として、両者の主張は同じ土俵で比較されますが、たいていの場合、「技術に惚れ込んだ技術の使用者」の方がより大きな説得力を持ちます。なぜなら、「技術に惚れ込んだ技術の使用者」はより大きな熱意を持っていて、かつ、技術的な制約に囚われない素晴らしい可能性を語りうるからです。

 しかし、そのようにして語られた「素晴らしい可能性」は多くの場合実現が困難です。「できるはずだ」という主張には、たいていの場合、理論的、技術的、コスト的、社会的、倫理的な裏付けがないからです。

 結果として関係者の全てが不満足な結果を残して終わるのが典型的なパターンだろうと思います。

無保証! §

 というような考え方ができるかもしれないと思いつきましたが、単なるアイデアのメモなので、正しいという保証はありません。

 むしろ、正しくないと思って読む方が健全な態度でしょう。